どんなに感動が深くても
どんなに苦悩が深くても
それはそれとして文章がいいことの
保証にはならない
すごく苦しんだ人がすごく凡庸に
すごい苦しみを書く
なんて文章の世界にはザラです
むしろすごい苦しむとそれに囚われてしまうから
余り苦しまない人の方がいいかな
というくらいのことさえ言われている
感動の重力から自由になれ
いったんその感動は伝達不能と思って
あきらめろ
するとヨソから書く契機がやってくる
それは実は「書けない」という抵抗や
間違いのような一種の妨害者のようなものだ
話がその時の勢いでずれる
ヨットが東に行く風を帆に受け
その風で北に行こうとする時には
ばたばたと震えるでしょう
そんなふうにそういう時の文章は
力を持ちます
「本当」の事は大事だし
それをめがけてでしかヒトは生きられないが
しかしその「本当」のことは
笑い飛ばされる必要がある
そうでないと「本当」のことは
何ものもこれを否定できないことになってしまう
それは「本当」のこと自身の望まないことではないか
そこに風穴をあけるものがフィクションである
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