2009年10月24日土曜日

反ユダヤ主義





日本のようにユダヤ人がほとんど存在しない社会でさえ
反ユダヤ主義が存在することができる
具体的にユダヤ人によって不愉快な目に遭うことが
ないにも関わらず反ユダヤ主義が存在する
どうしてそんなことがありうるのか
反ユダヤ主義がなぜあれほど
圧倒的な大衆動員力を持ったのかは
彼らの中にうごめいている
名付けようのない不安や恐怖に想像的に
共感してみないとわからない

ユダヤ人問題は「ユダヤ人」の定義が
不可能であるという「周辺事情」から
その本質が除いて見える

ユダヤ人問題というのは
いわば非ユダヤ人たちの側の
知的な「不調」の兆候である
非ユダヤ人はユダヤ人をうまくとらえることができない
まさにその「ユダヤ人をうまくとらえることができない」
という当の事実が
ユダヤ人問題の本質をなしている

反ユダヤ主義者たちは
ユダヤ人が何者であるかが「わかっている」せいで
迫害している訳ではない
何者であるかが「わからない」
でも「わからない」と口に出して言ってしまうと
足下が崩れてしまうような
ヨーロッパ世界そのものが瓦解してしまいそうな
嫌な予感がする
だから「目の前から消えてくれ」と叫びたてている

ヨーロッパ人であるということ自体で
すでにユダヤ人に対して
潜在的に加害者の立場にある
その立場の人が
「ユダヤ人迫害には理由があるのかもしれない」
ともらしたら それは自己弁護になる

逆に「すべての反ユダヤ主義に反対」ということになると
今度は自虐的なトーンを帯びてしまう
日本人が中国や韓国の「不幸な歴史」について
言及する場合と似ている
「日本の植民地支配にも見るべき成果があった」
というようなことを
日本人は中立的言明としては言えない
言えば必ず政治的に解釈される

でも当事者でない外国人であれば
そういうことを言ってもシニスムにはならない

それと同様にヨーロッパ人がユダヤについて話すのは
ある種の「踏み絵」である
























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